スキップしてメイン コンテンツに移動

90kgの体で猫用トンネルをくぐろうとして抜けなくなって軽くパニックになった実家住まいの非正規雇用43歳独身男性キムかつ

 


 

ニャンネルの向こう側

キムかつ(43歳、独身、実家暮らし、非正規雇用、体重90kg)は、古びた実家のリビングで、飼い猫のタマが真新しい猫用トンネルをくぐり抜けるのを、ぼんやりと眺めていた。シャカシャカと音を立てて、しなやかな体がトンネルを駆け抜ける。その軽やかさが、ソファに沈み込む自身の重たい肉体とは対照的で、キムかつの胸にちくりとした痛みが走った。

「タマはいいよなぁ、自由で…」

誰に言うでもなく呟く。工場のライン作業で疲れ切った体は、休日の今日も鉛のように重い。テレビは退屈なワイドショーを垂れ流し、窓の外では、隣家の子供たちの楽しそうな声が聞こえる。何もかもが、キムかつの孤独と停滞感を際立たせるようだった。

その時、悪魔が囁いたのか、それとも単なる気の迷いか。キムかつは、床に置かれたカラフルな猫用トンネルに目をやった。ポリエステル製の、直径わずか25センチほどの筒。

「……俺も、通れるんじゃね?」

突拍子もない考えが、脳裏をよぎった。いや、無理に決まっている。90kgの巨体が、猫のおもちゃを通り抜けられるわけがない。だが、退屈と自己嫌悪が飽和点に達していたキムかつの思考は、妙な方向に舵を切った。もしかしたら、この息苦しい現実から、あの小さなトンネルを抜けた先には、何か違う世界が待っているのかもしれない。そんな、ファンタジーじみた妄想が、むくむくと膨らみ始めたのだ。

「よし、ちょっと試してみるか」

キムかつは、よっこいしょ、と重い腰を上げた。四つん這いになり、トンネルの入り口に頭を向ける。タマが「ニャ?」と怪訝そうな顔でこちらを見ている。

「大丈夫だって、タマ。兄ちゃん、ちょっと冒険してくるからな」


 

 

根拠のない自信と共に、キムかつは頭からトンネルに突っ込んだ。布地がギシギシと悲鳴を上げる。思ったより、狭い。肩をすぼめ、腹をへこませ、なんとか上半身をねじ込むことに成功した。

「お、いけるいける!」

調子に乗って、さらに体を押し進める。しかし、問題はここからだった。キムかつの立派な太鼓腹が、トンネルの最も細い部分で、無慈悲な抵抗に遭ったのだ。

「ぐっ…!」

進むことも、退くこともできない。まるで、巨大なソーセージが、無理やり細いケーシングに詰め込まれたような状態だ。トンネルの布地が、皮膚に食い込む。

「あれ…? あれれ?」

最初は、自分の滑稽な姿に少し笑えた。だが、数分もがいても、一向に体が動かないことに気づくと、じわじわと焦りがこみ上げてきた。額に汗が滲む。

「おいおい、マジかよ…抜けねえ…」

呼吸が少しずつ苦しくなる。視界はトンネルの向こう側、薄暗いリビングの床だけ。タマが心配そうにトンネルの入り口をカリカリと引っ掻いている音が聞こえる。

「タマ、悪い、ちょっと、助けてくれ…押してくれ…いや、無理か…」

情けない声が出た。誰か、誰か助けてくれ。しかし、老いた両親はデイサービスに出かけていて、家にはキムかつとタマしかいない。このまま、猫用トンネルに詰まって、孤独死…? そんな最悪のシナリオが頭をよぎり、キムかつの心臓は早鐘を打ち始めた。軽いパニック状態だった。

「くそっ! なんで、俺はいつもこうなんだ!」


 

自暴自棄になり、力任せに体を捩った瞬間、トンネルの内部で何かが「ぐにゃり」と歪むような感覚があった。そして、トンネルの出口から見える景色が、奇妙に揺らぎ始めたのだ。

「…え?」

さっきまで見えていたリビングの床が、まるで水面のように波打ち、色とりどりの光が渦を巻き始めた。見慣れた木目のフローリングは、紫色と緑色がまだらに混ざり合った、粘土のような質感の地面へと変貌していく。壁にかかっていた古時計は、ぐにゃりと溶けて床に滴り落ち、そこから名状しがたい形をしたキノコのようなものが生えてきた。

「な…なんだよ、これ…幻覚か…?」

キムかつは目をこすろうとしたが、腕はトンネルに固定されて動かせない。パニックは、未知への恐怖へと変わっていた。トンネルの内壁が、生き物のようにぬるりと動き出し、キムかつの体にまとわりついてくる。それはまるで、巨大な蛇か何かの食道にいるような、おぞましい感覚だった。

『…キムかつ…』


 

 

どこからか、声が聞こえた。トンネルの向こう側、歪んだ異空間からだ。

『やっと気づいたか、キムかつ。ここがお前の本当の世界だ』

声と共に、異空間にいくつかの人影が現れた。それは、キムかつが人生で出会い、そして彼を打ちのめしてきた者たちの姿をしていた。小学生の頃、キムかつを「デブ」とからかったガキ大将。高校時代、告白して玉砕した相手の、冷たい笑顔。工場のラインで、ミスを繰り返すキムかつを罵倒した上司。そして、成功した弟の、憐れむような眼差し――。

彼らは、異空間の向こう側から、トンネルに詰まったキムかつを覗き込み、嘲笑っていた。

『見てみろよ、無様だなあ』

『やっぱりお前は、狭い場所がお似合いだ』

『一生そこから出てくるなよ』

『お前の人生、そのトンネルみたいに行き止まりだな!』

幻影たちの声は、キムかつの脳内で反響し、彼の自己肯定感を粉々に打ち砕いていく。

「やめろ…やめてくれ…!」

キムかつは悲鳴を上げた。しかし、声はトンネルの中でくぐもり、誰にも届かない。タマが入り口で必死に鳴いている声だけが、かろうじて現実との繋がりを保っていたが、それも次第に遠のいていく。

異空間の色彩はますます毒々しくなり、幻影たちの嘲笑はボリュームを増していく。トンネルの内壁は、キムかつの体にさらに強く絡みつき、呼吸すら困難になってきた。閉塞感と恐怖、そして絶望的な自己嫌悪が、キムかつの精神を蝕んでいく。

もう、もがく気力も残っていなかった。キムかつの体から力が抜け、ぐったりとトンネルの中で動かなくなる。意識が朦朧とし、現実と幻想の境界線が完全に消え去った。

(…これで、いいのかもしれない…)

最後にそう思ったのを覚えている。狭くて暗い、この奇妙なトンネルの中が、もしかしたら自分にとって一番ふさわしい場所なのかもしれない、と。

リビングには、床に伸びるカラフルな猫用トンネルだけが残されていた。トンネルは、まるで何かを消化するかのように、かすかに脈打っているようにも見える。入り口では、タマが心配そうに、しかしもう諦めたかのように、静かに座り込み、トンネルの中をじっと見つめていた。

キムかつが、そのトンネルから再び姿を現すことはなかった。彼が、重たい肉体ごと異空間に飲み込まれてしまったのか、それとも、トンネルと一体化してしまったのか、知る者は誰もいない。ただ、古びた実家の一室には、不気味なほど静かな時間と、床に横たわる空っぽの猫用トンネルだけが、永遠に取り残されていた。

コメント

このブログの人気の投稿

猫の舌に羅針盤 - 当てにならない道案内、または気まぐれな判断のこと。

    春の陽気が心地よい午後、キムかつは近所の公園でぼんやりと空を眺めていた。特に予定もなく、ただ時間が過ぎるのをやり過ごしている。そんな彼の耳に、困ったような若い女性の声が飛び込んできた。 「すみません、あの、この美術館ってどう行けばいいんでしょうか?」 声をかけられたキムかつは、少し戸惑いながらも顔を上げた。目の前には、地図アプリを開いたスマートフォンを手に、不安そうな表情を浮かべた若い女性が立っていた。     「美術館ですか……ああ、確かあっちの方だったと思いますけど……」 キムかつは曖昧な返事をした。実は、彼はその美術館に行ったことがなかった。しかし、せっかく話しかけてくれた女性に「分かりません」と答えるのは気が引けたのだ。 「えっと、この道をまっすぐ行って、突き当たりを左に曲がって、それから……たぶん、右手に何か目印があるはずです。確か、赤い屋根の建物が見えたような……気がしますね」 自信なさげに、まるで猫の舌で適当な方角を示すかのように、キムかつはでたらめの方角を伝えた。女性は少し不安そうな顔をしながらも、「ありがとうございます」と頭を下げ、キムかつが指した方向へ歩き出した。 数時間後、キムかつが公園のベンチでウトウトしていると、再びあの女性が息を切らせて戻ってきた。   「あの!すみません!全然違う場所に辿り着いてしまって……赤い屋根の建物なんてどこにもありませんでした!」 女性は少し怒った様子だった。キムかつは、まさか本当に頼りにされるとは思っていなかったため、慌てて弁解しようとした。 「あ、ああ、すみません!実は、その美術館には行ったことがなくて……たしか、そんな感じだったような、と……」 女性は呆れたようにため息をついた。「もう結構です。自分でちゃんと調べます」と言い残し、足早に去っていった。 ベンチに残されたキムかつは、自分のいい加減な案内を反省した。「やっぱり、知らないことは知らないって言うべきだったな……まさに『猫の舌に羅針盤』だったか」と、心の中で呟いた。 実家に戻ったキムかつは、母親に今日の出来事を話した。「またあんたは適当なこと言って人を困らせて」と呆れられたが、キムかつ自身も、いい加減な知識で人にアドバイスすることの危うさを改めて感じたのだった。それ以来、彼は知らないことを聞かれた...

キムかつ冒険活劇 第四話 風になびく赤いマフラー! 砂漠の秘宝とキムかつ隊

  グリズリー・ベアを打ち破り、異世界格闘大会の観客から喝采を浴びたキムかつは、勝利の興奮と困惑が入り混じった感情で、サイクロン号を抱きしめていた。肩のうーろんと腕のぷーあるも、先ほどの興奮が冷めやらない様子で、闘技場を見渡している。 その時、闘技場の司会者が再び高らかに声を上げた。 「異界の挑戦者、キムカツ! その力、まこと驚くべきもの! しかし、この大会はただの力比べではない! 次なる試練は、知と勇気を試す冒険となる!」 司会者の言葉に、観客たちは再び熱狂する。キムかつの足元の「鉄」のプレートが光り始め、中央部分がゆっくりと下降していった。 「な、なんだ!?」 闘技場の地下へと吸い込まれるように降りていくキムかつ。ぷーあるが不安げに「ニャー」と鳴き、うーろんもキムかつの腕に顔をうずめた。暗闇の中をしばらく下降すると、やがて光が見えてきた。 目を開けると、そこは広大な砂漠の真ん中だった。灼熱の太陽が容赦なく照りつけ、地平線の彼方まで砂漠が広がる。先ほどまでいた闘技場とは打って変わって、静かで、しかしどこか危険な雰囲気が漂っていた。 「砂漠…? 次の試練って一体…」 途方に暮れるキムかつの足元に、突然、古びた羊皮紙が舞い落ちてきた。拾い上げて見ると、そこには歪んだ文字でこう書かれていた。 「風の神殿に眠る秘宝を探せ。砂漠の試練を乗り越えし者のみ、次の扉を開く資格を得るだろう。――案内人は既に、お前の傍らにいる」 「風の神殿? 秘宝? 案内人?」 キムかつが困惑していると、背後から聞き覚えのある声がした。 「やっと来たか、異界の愚か者め」     振り返ると、そこに立っていたのは、先ほどまで闘技場にいたはずの審判ゴブリンだった。だが、彼の雰囲気は先ほどまでとは全く違う。震えていた声には自信が宿り、その目は鋭く光っていた。 「お、お前は…!」 ゴブリンはにやりと笑った。 「わしはこの砂漠の試練の案内人、名をゴブリン・ザ・ウィズダムという。お前は先の戦いでわしを楽しませた。故に、特別にこの試練の道案内をしてやろう」 「は、はあ…」 あまりにも急な展開についていけないキムかつだが、とりあえずこのゴブリンと行動を共にすることになった。 「では、早速出発だ! 風の神殿は、この砂漠の嵐の先に隠されている!」 ゴブリンはそう言うと、どこからともなく巨大な...

愛猫が自分の腹の上で寝るのを「信頼の証だ…!」と勝手に感動している実家住まいの非正規雇用43歳独身男性キムかつ

    薄暗い四畳半、万年床の上で、キムかつは至福の重みを感じていた。愛猫のタマが、ふかふかの、しかし若干加齢臭が漂い始めたキムかつの腹の上で、満足げに喉を鳴らしている。「タマ…お前だけだよ、俺をこんなにも信頼してくれるのは…」。キムかつの目には、うっすらと涙が浮かんでいた。齢43、実家暮らしの非正規雇用。社会の歯車というよりは、歯車の溝に挟まったホコリのような存在。それがキムかつであった。 その夜、キムかつの腹の上で眠るタマが、不意に淡い七色の光を放った。キムかつは寝ぼけ眼でそれを見て、「おお、タマよ、お前はついに悟りを開いたのか…それとも、俺の腹の脂がプリズム効果を…?」などと見当違いな感動を覚えていた。 翌朝、キムかつが惰眠を貪っていると、階下から母親の甲高い声が響いた。「カツオ!あんた、今日は仕事休みだって!なんか、社長がUFOにさらわれたとかで、会社がてんやわんやらしいわよ!」。キムかつは飛び起きた。UFO?社長が?まさか…。しかし、テレビをつけると、ワイドショーはその話題で持ちきりだった。「昨日未明、〇〇市の株式会社△△の社長宅に謎の飛行物体が飛来し、社長夫妻を連れ去った模様です。現場には奇妙な粘液と、なぜか大量の猫じゃらしが残されており…」。 「…タマ?」 キムかつは恐る恐る、傍らで毛づくろいをするタマに視線を送った。タマは「にゃあ」と一つ鳴き、キムかつの鼻先に肉球を押し付けた。その瞬間、キムかつの脳内に、直接的なイメージが流れ込んできた。『退屈だった。ちょっと宇宙にドライブに行きたくなった。ついでに社長も誘ってみた。土産は猫じゃらしでいいかと思った』。 キムかつは戦慄した。うちの猫、とんでもない能力を秘めているのでは? それからの日々は、キムかつにとってまさに夢のようだった。最初は半信半疑だったが、「明日の昼飯、極上のうな重になあれ」とタマに願えば、翌日、出前持ちが「ご注文の特上うな重です。代金は…あれ?お支払い済みになってますね。どなたかからのプレゼントでしょうか?」と首を傾げながら届けに来る。「あのコンビニの新人バイトの女の子と、ちょっとイイ感じになりたいな」と願えば、翌日、その子がレジで「あの…いつもありがとうございます。これ、よかったら…」と、期限切れ間近のアンパンを頬を染めながら差し出してくる。    ...