薄暗い四畳半、万年床の上で、キムかつは至福の重みを感じていた。愛猫のタマが、ふかふかの、しかし若干加齢臭が漂い始めたキムかつの腹の上で、満足げに喉を鳴らしている。「タマ…お前だけだよ、俺をこんなにも信頼してくれるのは…」。キムかつの目には、うっすらと涙が浮かんでいた。齢43、実家暮らしの非正規雇用。社会の歯車というよりは、歯車の溝に挟まったホコリのような存在。それがキムかつであった。
その夜、キムかつの腹の上で眠るタマが、不意に淡い七色の光を放った。キムかつは寝ぼけ眼でそれを見て、「おお、タマよ、お前はついに悟りを開いたのか…それとも、俺の腹の脂がプリズム効果を…?」などと見当違いな感動を覚えていた。
翌朝、キムかつが惰眠を貪っていると、階下から母親の甲高い声が響いた。「カツオ!あんた、今日は仕事休みだって!なんか、社長がUFOにさらわれたとかで、会社がてんやわんやらしいわよ!」。キムかつは飛び起きた。UFO?社長が?まさか…。しかし、テレビをつけると、ワイドショーはその話題で持ちきりだった。「昨日未明、〇〇市の株式会社△△の社長宅に謎の飛行物体が飛来し、社長夫妻を連れ去った模様です。現場には奇妙な粘液と、なぜか大量の猫じゃらしが残されており…」。
「…タマ?」
キムかつは恐る恐る、傍らで毛づくろいをするタマに視線を送った。タマは「にゃあ」と一つ鳴き、キムかつの鼻先に肉球を押し付けた。その瞬間、キムかつの脳内に、直接的なイメージが流れ込んできた。『退屈だった。ちょっと宇宙にドライブに行きたくなった。ついでに社長も誘ってみた。土産は猫じゃらしでいいかと思った』。
キムかつは戦慄した。うちの猫、とんでもない能力を秘めているのでは?
それからの日々は、キムかつにとってまさに夢のようだった。最初は半信半疑だったが、「明日の昼飯、極上のうな重になあれ」とタマに願えば、翌日、出前持ちが「ご注文の特上うな重です。代金は…あれ?お支払い済みになってますね。どなたかからのプレゼントでしょうか?」と首を傾げながら届けに来る。「あのコンビニの新人バイトの女の子と、ちょっとイイ感じになりたいな」と願えば、翌日、その子がレジで「あの…いつもありがとうございます。これ、よかったら…」と、期限切れ間近のアンパンを頬を染めながら差し出してくる。
「タマよ、お前は俺の救世主だ!これで俺の人生、一発逆転だ!」
キムかつは舞い上がった。非正規の仕事なんて、もうどうでもいい。タマの力があれば、億万長者だって、世界の王にだってなれる!
しかし、タマの力は、どこかキムかつの情けない願望を反映するかのように、微妙にズレていた。億万長者になりたいと願えば、なぜか「1億円拾ったけど、全額警察に届けたら謝礼で1000万円もらえた」という、手放しでは喜べない中途半端な結果になる。しかも、その1000万円も、怪しげな投資話に引っかかり、あっという間に溶けて消えた。世界征服を願えば、世界中の人々がキムかつのことを「なんか、ほっとけない残念な人」として認識し、同情と憐憫の眼差しを向けてくるようになる。街を歩けば「キムかつさん、頑張って!」「応援してるよ(色んな意味で)!」と声をかけられ、SNSでは「#キムかつを見守る会」なるハッシュタグがトレンド入りする始末。それは、彼が望んだ支配とは程遠い、公開羞恥プレイのような状況だった。
「違う、こんなんじゃない…!俺が欲しいのは、もっとこう、圧倒的な力と、それに対する畏敬の念なんだ!」
キムかつは焦った。タマの力は万能ではなかった。そして、タマ自身も、願いを叶えるたびに少しずつ痩せ衰えていくように見えた。腹の上で喉を鳴らす音も、以前よりか細くなっている。
「タマ…大丈夫か?」
キムかつが心配そうに声をかけると、タマは弱々しく「にゃ…」と鳴き、キムかつの頬を舐めた。その瞬間、キムかつの脳裏に最後のメッセージが流れ込んできた。『もう、あまり力は残っていない。でも、カツオのためなら…』。
キムかつは涙ぐんだ。「タマ…お前ってやつは…」。彼は最後の、そして最大の願いをタマに託す決意をした。「タマよ、俺を…俺を、この世界で一番カッコイイ男にしてくれ!誰もがひれ伏すような、完璧な存在に!」
タマは、ひときわ強い光を放った。それは、まるでタマ自身の命を燃やすかのような、激しくも儚い光だった。光が収まった時、タマはぐったりとキムかつの腹の上で動かなくなっていた。そして、キムかつの身体には、信じられない変化が起きていた。
鏡に映る自分は、ハリウッドスターもかくやというほどの超絶イケメンになっていた。筋肉は隆々と盛り上がり、知性とカリスマが全身から溢れ出ている。声を発すれば、周囲の女性たちがうっとりと目を閉じ、男性たちですら畏敬の念を抱くほどだった。
「やった…やったぞタマ!これだよ、これこそが俺の望んだ姿だ!」
キムかつは歓喜した。しかし、その喜びは長くは続かなかった。完璧すぎる容姿と能力は、逆に人々を遠ざけた。「完璧すぎて、近寄りがたい」「なんだか人間味がなくて怖い」。そう言って、人々はキムかつから距離を置くようになった。かつて彼に同情の声をかけていた人々も、今では遠巻きに彼を眺めるだけだ。
そして、キムかつが最も信頼していたはずのタマは、もはやただの抜け殻のように冷たくなっていた。腹の上で感じる温もりも、安心感も、もうどこにもない。
「タマ…?おい、タマ…?」
キムかつは、完璧な容姿とは裏腹に、ひどく情けない声でタマに呼びかけた。しかし、タマが再び喉を鳴らすことはなかった。
気がつけば、キムかつは相変わらず薄暗い四畳半の万年床の上にいた。しかし、そこにはもうタマの姿はなかった。社長がUFOにさらわれた事実はなく、キムかつはいつも通り非正規の仕事へ向かう時間だ。コンビニの新人バイトの女の子は、キムかつのことなど気にも留めない。ただ、腹の上にタマがいないという事実だけが、耐え難いほどの喪失感としてキムかつの胸に重くのしかかっていた。
夢だったのだろうか。いや、夢ではない。キムかつの手元には、いつの間にか一枚の写真が握られていた。それは、キムかつがまだ情けない姿のまま、タマを腹の上に乗せて満面の笑みを浮かべている写真だった。写真の中のタマは、満足そうに目を細めている。
「タマ…」
キムかつは、その写真を胸に抱きしめ、声を上げて泣いた。失って初めて気づく、かけがえのない存在。一発逆転などでは決して手に入らない、ささやかな幸せ。しかし、それに気づいた時には、もう遅すぎた。
結局、キムかつの人生は何も変わらなかった。いや、唯一無二の理解者(だとキムかつが勝手に思っていた)を失った分、以前よりもっと孤独で、情けないものになったのかもしれない。腹の上の温もりを思い出すたびに、キムかつの胸は虚しさに締め付けられるのだった。それは、決してハッピーエンドとは程遠い、キムかつという男の、どうしようもなく情けない現実であった。




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