拝啓、鏡の中の道化師へ。
キムかつ43歳。万年床が定位置の実家子供部屋で、彼は人生の一発逆転を夢見ていた。非正規という不安定な小舟で世間の荒波に揺られ、孤独という名の無人島に漂着して久しい。カレンダーは無情にめくられ、腹回りの浮き輪だけが着実にその厚みを増していく。そんな彼が、ある日、古雑誌の山から一冊の聖書(バイブル)を発掘した。『月刊 モテる男の最終定理』。埃をかぶったその表紙には、爽やかな笑顔の外国人モデルが、これみよがしにシャツの襟を立てていた。
「これだ…!」
キムかつは雷に打たれたような衝撃を受けた。モテる男は襟を立てる。単純明快なその法則に、彼は暗闇に差す一筋の光明を見た。早速、クローゼットの奥から年代物のポロシャツを引っ張り出し、鏡の前で外国人モデルを真似て襟を立ててみる。くたびれた襟は力なく垂れ下がろうとするが、キムかつは執念でそれを立たせた。
鏡に映る自分の姿。…何かが違う。
確かに襟は立っている。しかし、外国人モデルの洗練された雰囲気とは程遠い。そこには、無理やり背伸びをさせられている、どこか間の抜けた中年男がいるだけだった。首筋が妙にスースーする。いや、チクチクとした微かな痒みのような感覚さえあった。
「気のせいか…?」
キムかつは首を傾げた。その瞬間、鏡の中の自分の襟が、ピク、と痙攣したように見えた。そして、ほんの僅かだが、襟の角度が変わった気がした。
その夜から、キムかつの首筋の違和感は増していった。立てた襟が、まるで生き物のように彼のうなじに纏わりつき、時折、微かな音を立てるのだ。シャリ…シャリ…と、まるで小さな虫が何かを齧るような音。そして、囁き声が聞こえ始めた。
《ソウダ…ソノ調子ダ…キムカツ…》
それは、古井戸の底から響くような、陰湿でねっとりとした声だった。
「だ、誰だ…?」
キムかつは部屋を見回すが、誰もいない。声は、彼の立てた襟、その内側から直接響いてくるようだった。
《オマエハ…カワレル…コノ襟ガ…オマエヲ導ク…》
恐怖よりも先に、キムかつの心に奇妙な高揚感が芽生えた。この襟は、ただの布ではない。モテる男へと自分を導いてくれる、魔法のアイテムなのかもしれない。
しかし、襟の要求は次第にエスカレートしていった。それはキムかつの自信のなさ、卑屈な心、過去の恋愛におけるトラウマ的な失敗談などを、まるで栄養分のように吸い上げ始めたのだ。襟は日ごとに硬く、そして奇妙な光沢を帯びていく。キムかつのうなじに食い込むように密着し、もはや一体化しているかのようだった。
《モット…ヨコセ…オマエノ黒イ感情ヲ…ソレガワタシヲ育テル…》
襟は囁き続ける。キムかつは、その声に抗えなくなっていた。彼は自ら進んで過去の恥辱を反芻し、現在の不満を声に出し、未来への絶望を襟に捧げた。するとどうだろう。襟はますます力強く立ち上がり、キムかつの表情にも、どこか不気味な自信のようなものが浮かび始めたのだ。
彼は意気揚々と街へ出た。立てた襟は天を衝くようにそそり立ち、道行く人々の視線を集める。しかし、それは羨望の眼差しではない。困惑と、微かな恐怖が入り混じった視線だった。だが、襟に操られたキムかつには、それが理解できなかった。
《見ロ…皆ガオマエニ注目シテイルゾ…オマエハ選バレタノダ…》
襟は囁く。キムかつの首筋は、もはや襟と完全に同化し、その境界は曖昧になっていた。襟はまるでキノコか何かの菌類のように、キムかつの頭皮に向かってその勢力を拡大し、彼の生気を吸い上げては、妖しい光沢を増していく。キムかつ自身は痩せ衰え、目の下の隈は深くなる一方だというのに。
ある日、キムかつは同じように不自然なほど襟を立てた男とすれ違った。男の顔は青白く、虚ろな目をしていた。そして、その男の襟もまた、キムかつのものと同じように、異様な存在感を放っていた。キムかつは直感した。彼もまた「同類」なのだと。
その瞬間、キムかつの襟が激しく脈動した。
《仲間ヲ増ヤセ…コノ世界ヲ…我々ノ美意識デ埋メ尽クスノダ…》
キムかつの意識は、そこで途切れた。
次に彼が「目覚めた」時、彼はガラスケースの中に立っていた。周囲には、同じように奇妙なポーズで固まった、無数の「襟を立てた男たち」がいた。彼らの頭部は、例外なく、巨大で禍々しい襟のような菌床に覆い尽くされ、もはや個人の顔は見分けがつかない。
キムかつ(だったもの)もまた、その一体だった。彼の意識は完全に襟と融合し、ただ「より美しく、より高く襟を立てる」という本能だけが残されていた。かつてキムかつだった肉体は、その栄養を全て襟に捧げ、今や襟を支えるための単なる台座と化していた。
ショーウィンドウの外を、人々が足早に通り過ぎていく。誰も、この異様なマネキンたちが、かつて「モテたい」と願った哀れな男たちの成れの果てだとは気づかない。
時折、ショーウィンドウに自分の姿が映り込む。そこには、かつて彼が夢見た「モテる男」の姿があった。しかし、それはもはや彼ではなかった。彼の本体は、天に向かって誇らしげにそそり立つ、醜悪で美しい、巨大な「襟」そのものだったのだから。
そして、その襟は、今日も新たな獲物を求めて、ガラスの向こうの世界に、静かなるアピールを続けているのだった。
《オマエモ…コチラヘ来ナイカ…?》




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