体重計ノイローゼ・ブルース
キムかつ(43歳・独身・非正規雇用・実家暮らし)にとって、自室のベッドの下は聖域であり、同時に魔窟でもあった。そこに、彼が「封印」した忌まわしき物体が眠っているからだ。それは、埃をかぶったデジタル体重計。最後に表示された数字の残像が脳裏に焼き付き、キムかつは恐慌状態に陥った。それ以来、彼は体重計から単三電池を抜き取り、ガムテープで電池蓋をぐるぐる巻きにし、さらにコンビニ袋で三重に包み、「禁」とマジックで書き殴った紙を貼り付け、ベッド下の暗がりへと押し込んだのである。
彼の日常は、体重計の呪縛から逃れるための闘いだった。スーパーの鏡張りの柱、ショーウィンドウ、電車の窓に映る自分の姿から目を逸らす。風呂場の鏡は常に湯気で曇らせ、決して全身を見ようとしない。ベルトの穴が一つ、また一つときつくなっている事実は、巧妙な思考のすり替えによって「洗濯による縮み」あるいは「ベルト革の経年劣化」として処理された。
食事は、カロリー計算などという恐ろしい行為とは無縁の、コンビニ弁当とカップ麺、そして安価なスナック菓子が中心だった。深夜、両親が寝静まった後、冷蔵庫から発掘した残り物や菓子パンを、罪悪感と奇妙な高揚感をない交ぜにしながら、自室で貪り食う。その行為は、体重計へのささやかな反逆であり、同時に自らを罰する儀式でもあった。
しかし、「封印」は完璧ではなかった。ベッドの下から、時折、奇妙な物音が聞こえるようになったのだ。最初は気のせいかと思った。家鳴り、あるいはネズミか何かだろうと。だが音は次第にハッキリとしてきた。それは、カチリ、カチリ、という、まるで昆虫が硬い殻を擦り合わせるような、あるいは遠い昔の柱時計が律儀に時を刻むような、乾いた無機質な音だった。
「まさか…」
キムかつは冷や汗をかいた。体重計だ。電池も入っていないはずの体重計が、音を発している? 恐怖に駆られ、彼はベッド下の暗がりに手を伸ばしかけたが、すぐに引っ込めた。「禁」の文字が、暗闇の中で赤く光ったような気がしたのだ。
現象はエスカレートしていく。ある朝、洗面台の鏡に映った自分の顔の横に、一瞬だけ「88.8」という数字が湯気の中に浮かび上がって消えた。別の日は、飲み干したインスタントコーヒーのカップの底に、黒い粉が奇妙な模様を描いていた。目を凝らすと、それは「91.4」という数字に見えなくもなかった。幻覚だ、と彼は頭を振ったが、動悸は収まらなかった。
「カツヒコ、あんた、また太ったんじゃないの? そのシャツ、お腹のボタンがはち切れそうよ」
リビングで朝食をとっていると、母親が無遠慮に指摘した。キムかつの心臓が凍りつく。母親の言葉が、ベッド下の体重計をさらに活性化させるのではないか? そんな妄想が彼を襲った。
その夜、異変は頂点に達した。ベッドに横たわっていると、例のカチリ、カチリ、という音が、すぐ枕元で聞こえるような気がした。それだけではない。部屋全体が、じわりと重みを増していくような感覚。空気が粘性を帯び、呼吸が苦しくなる。まるで、部屋そのものが、キムかつの増え続ける(であろう)体重に耐えかねて軋んでいるかのようだ。暗闇に目を凝らすと、壁のシミが、蠢く数字の集合体のように見えた。
「うわあああっ!」
耐えきれず、キムかつはベッドから転がり落ちた。そして、半ば狂乱状態でベッド下の「封印」を破った。コンビニ袋を引き裂き、ガムテープを剥がし、震える手で新しい単三電池を体重計に押し込む。
ピ、と電子音が鳴り、液晶ディスプレイが青白く光った。ゼロが表示される。彼は意を決し、そのガラスの板の上に、おそるおそる足を乗せた。
数字が激しく点滅する。75.3、99.9、102.1、???、60.0、85.4…キムかつの心臓は破裂しそうだった。やがて数字は動きを止め、ある一点に落ち着いた。
「86.2」
思ったよりは…少ない? いや、それでも十分すぎるほど重い。しかし、キムかつが安堵する間もなかった。彼がその数字を見つめていると、奇妙なことが起こった。体重計が、ゆっくりと、しかし確実に、床に沈み始めたのだ。
「え…?」
足元がぐにゃり、とめり込むような感覚。まるで体重計が、キムかつ自身の重みと、彼が抱える全ての「情けなさ」の総重量に耐えきれず、床板ごと奈落へ引きずり込もうとしているかのようだった。体重計は床に1センチほど沈み込み、そこで動きを止めた。だが、足は鉛のように重く、そこから動かせない。まるで、体重計と床が一体化し、彼を捕縛するアンカーとなったかのようだった。
「嘘だろ…」
彼は足を上げようとした。しかし、見えない力に押さえつけられているかのように、びくともしない。物理的に不可能ではないはずだ。だが、精神が、その行為を拒絶している。86.2という数字が、青白い光を放ちながら、彼を嘲笑っている。それは単なるキログラムの表示ではなく、彼の存在そのものの「重さ」、その「どうしようもなさ」を突きつける烙印のように見えた。
階下から、母親が「カツヒコー! ご飯よー!」と呼ぶ声が聞こえる。しかし、その声は遠く、キムかつの耳には届かない。彼は、わずかに床に沈んだ体重計の上で立ち尽くす。動けない。動く気力もない。
情けない43歳独身男性キムかつ。彼は、自ら封印を解いた体重計によって、今度は物理的に、そして精神的に、その場に縫い付けられてしまった。部屋には相変わらず、彼が恐れた現実の数字と、それ以上に重い絶望の空気が満ちている。ハッピーエンドは、この部屋の埃っぽい匂いの中には、どこにも存在しない。ただ、青白く光る数字だけが、彼の永遠の足枷として輝き続けるのだ。




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