第一章:灼熱のウェルカム
賽の河原は、うだるような熱気と、亡者たちの乾いた悲鳴に満ちていた。
「こりゃあ、たまげた。聞いてはいたが、本当に地獄なんてものがあったんだな」
軽業師のそうべえは、生前、綱渡りの芸の最中に足を滑らせて命を落とし、今こうして三途の川を渡り終えたばかりだった。彼の傍らには、同じく不運にも道連れとなった歯抜き師のしかい、医者のちくあん、そして山伏のふっかいが、地獄のあまりの熱さに汗をだらだらと流しながら立ち尽くしている。
見渡す限り、赤黒い大地が広がり、血の池地獄からはむせ返るような臭気が立ち上る。針山では無数の亡者が串刺しになり、その叫び声が熱風に乗って運ばれてくる。赤鬼、青鬼が巨大な金棒を振り回し、亡者たちを追い立てている様は、まさにこの世の終わり、いや、この世が終わった先の光景そのものだ。
「わしらも、釜茹でにでもされるんかのう…」
ちくあんが震える声で言うと、ふっかいが印を結び、「臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前!」と力強く唱えた。しかし、九字護身法もこの灼熱地獄の物理的な暑さの前には気休めにしかならない。
「おい、そこの突っ立ってる亡者ども!さぼるな!貴様らには、灼熱地獄のフルコースを味わわせてやる!」
頭に二本の角を生やした巨大な赤鬼が、一行に気づいてげらげらと笑う。絶体絶命。そうべえが懐の扇子でパタパタと自らを扇ぎ、何か涼しげな芸でもしてごまかせないかと考えた、その時だった。
ブォォォンンン!!!
突如、地獄の淀んだ空気を切り裂いて、けたたましい機械音が鳴り響いた。音の発生源は、なんと虚空。空間が陽炎のようにぐにゃりと歪み、そこから目も眩むような七色の光が迸った。
「な、なんだぁ!?天変地異か!」
鬼も亡者も、そしてそうべえたちも、何事かと空を見上げる。光の中心から、ゆっくりと何かが降下してくる。それは、どう見ても地獄の風景にそぐわない、異質な物体だった。黒い革張りの、立派な椅子。そして、その椅子に深々と腰掛け、状況を把握できずにいる一人の男。
歳は四十がらみ、体重は九十キロはあろうかという巨漢。オールバックに固めた髪は汗で少し乱れ、茶色のティアドロップサングラスが地獄の熱でじりじりと熱を持っている。首には、地獄の熱風を受けてもいないのに、なぜか赤いマフラーが勇ましくたなびいていた。両手は茶色の指切りグローブに覆われ、膝の上には得体の知れない板状の機械を、まるで宝物のように抱えている。
「……実験は成功、なのか?いや、しかしこの熱量と硫黄臭、想定外の環境だ。ここは一体どこだ?」
男は呟くと、膝の上の機械――透明なアクリルケースに覆われ、内部で二つのファンが七色に輝く自作デバイス『サイクロン号』――のスイッチ類を、確認するように指でなぞった。
彼の名は、キムかつ。40代、独身、実家住まい、非正規雇用。その正体は、夜な夜な自室にこもっては謎の機械作りに没頭する、孤独なアマチュア発明家である。数分前まで、彼は自室でサイクロン号の最終出力テストを行っていた。しかし、出力を最大にした瞬間、非正規の給料を切り詰めて買った安物のコンデンサーが悲鳴を上げ、回路がショート。暴走したサイクロン号は時空に裂け目を作り出し、かくしてキムかつは、ゲーミングチェアごと愛猫二匹と共に、地獄へと転送されてしまったのである。
「ニャア…」
「グルル…」
キムかつの足元で、茶白の猫「うーろん」と茶トラの猫「ぷーある」が、慣れない熱気と臭いに不安げな声を上げた。
第二章:サイクロン号の風
「き、貴様、何者だ!?」
赤鬼が、得体の知れない闖入者(ちんにゅうしゃ)に動揺しつつも、威嚇の声を張り上げる。
キムかつはサングラスの奥の瞳で赤鬼をじろりと見やり、それから周囲の環境に目を向けた。
「この赤茶けた大地…高濃度の酸化鉄か。大気中の硫黄成分も高い。なるほど、火山性ガス地帯に近い環境だな。で、君は、このエリアの管理人か何かかね?」
キムかつは、ここが何かの実験施設か、あるいは未知の惑星だとでも思っているようだった。そのあまりに場違いで落ち着き払った態度に、赤鬼は逆に調子を狂わされる。
「か、管理人だと!?ふざけるな!我は地獄の鬼だ!貴様のような亡者は、この金棒で叩き潰してくれるわ!」
激昂した赤鬼が、金棒を大きく振りかぶってキムかつに襲い掛かる。そうべえたちが「危ない!」と叫ぶ暇もなかった。
しかし、キムかつは冷静だった。彼はただ、自らの発明品を守るために、膝の上のサイクロン号を操作するだけだ。
「やむを得ん。緊急防衛プロトコル、作動」
彼は左手のレバーをぐっと手前に倒し、右手でずらりと並んだ12個のボタンの中から、緑色のボタンの一つを力強く押し込んだ。
ブゥゥゥゥオオオオオオオオオッッ!!!
サイクロン号に搭載された二つのファンが、轟音と共に猛烈な勢いで回転を始めた。それはただのファンではなかった。キムかつが長年かけて開発した、空間エネルギー集束型ハイパーダクトファンである。ファンは地獄の灼熱の空気を凄まจい勢いで吸い込み、圧縮し、そして前面から一気に放出した。
それはもはや風ではなかった。暴風、いや、衝撃波に近い、熱気の塊だった。
「ぐわああああああああっ!!」
金棒を振りかぶっていた赤鬼は、その圧倒的な風圧に抗うすべもなく、まるで紙くずのように吹き飛ばされ、遥か彼方の針山に「ぷすり」と突き刺さった。周りにいた他の鬼たちも「うわーっ!」「ひえーっ!」と叫びながら、面白いように転がっていく。
地獄に、一瞬の静寂が訪れた。
そうべえ、しかい、ちくあん、ふっかいの四人は、あっけにとられて口を開けている。
「ほう、出力は想定通り、いや、それ以上か。この高熱・高圧の環境が大気の密度を高め、結果として運動エネルギーが増大したのかもしれないな」
キムかつは、腕を組んで真剣な顔で分析している。彼の目には、吹き飛ばされた鬼たちの姿よりも、サイクロン号が叩き出した性能データの方が重要らしかった。
「す、すげえ…」そうべえが呟いた。「あの旦那、風を操るのか…?」
「いや、あれは風ではない。もはや妖術の類じゃ」ふっかいが畏怖の念を込めて言った。
キムかつは、足元で不安げにしているうーろんとぷーあるの頭を撫でた。
「大丈夫だ、お前たちは俺が守る。それにしても、早くこの劣悪な環境をどうにかしないとな。お前たちのデリケートな毛皮に悪い」
彼の発明の動機は、いつだって愛猫の快適な生活のためなのである。
第三章:閻魔大王の無茶ぶり
地獄の管理システムは、前代未聞の事態に大混乱に陥っていた。正体不明の男が、謎の機械で鬼を吹き飛ばし、地獄の秩序を乱しているのだ。
この異常事態は、すぐさま地獄の最高責任者の耳に届いた。
「…面白い。その『キムかつ』とやらを、余の前に連れてまいれ」
閻魔庁の玉座に座す、閻魔大王その人である。
鬼たちに丁重に(恐る恐る)案内され、キムかつはゲーミングチェアごと閻魔庁に運び込まれた。彼の前には、天を衝くほどの巨体を持つ閻魔大王が、巨大な『浄玻璃の鏡』を睨みつけている。
鏡には、キムかつの現世での行いが、詳細なデータと共に映し出されていた。非正規の職場で淡々と作業をこなす姿。特売のキャットフードを買いだめする姿。そして、薄暗い自室で、はんだごてを片手に、七色に光る謎の機械『サイクロン号』をいじり続ける姿…。
閻魔大王は、その巨体に似合わぬ、興味深そうな目でキムかつを見下ろした。
「汝、キムかつと申すか。非正規雇用の身でありながら、その少ない稼ぎのほとんどを、その奇妙な箱につぎ込んでおるな。その『サイクロン号』とやら、一体何のために作り上げたのだ?」
「…それは、企業秘密だ」
キムかつは、自らの最高傑作のスペックを易々と明かすつもりはないようだった。
閻魔大王は、にやりと口の端を上げた。久しく忘れていた『好奇心』という感情が、心の奥底から湧き上がってくるのを感じていた。
「秘密、とな。ならば、その性能、この余に見せてみよ。聞けば、貴様の機械は風を起こすだけでなく、他にも様々な機能があるそうではないか。もし、貴様がこの地獄が抱えるいくつかの問題を、その機械で解決できたなら…罪を帳消しにし、現世へ送り返してやろう。だが、できねば…未来永劫、この地獄のエネルギー供給施設で非正規雇用として働かせてくれるわ!」
その言葉に、キムかつの発明家魂が、カチリと音を立てて燃え上がった。
「問題…?この地獄の?」
「うむ。まずは、あの血の池地獄だ。あのむせ返る悪臭、なんとかならんか。次に、賽の河原の石積みだ。あれは鬼が崩すのも面倒でな。もっと効率的にできんものか。そして最後に…この閻魔庁、夏は暑く、冬は寒い。どうにか快適にならんものか」
それは、もはや地獄の刑罰というより、ただの職場環境への不満だった。
キムかつは、サングラスの位置を直した。
「面白い。その挑戦、受けて立とう。俺のサイクロン号の性能を、甘く見るなよ」
こうして、一人の孤独な発明家による、前代未聞の「地獄環境改善プロジェクト」が始動したのである。
第四章:地獄リノベーション
キムかつは、まず閻魔大王に要求した。
「プロジェクトを遂行するにあたり、アシスタントが必要だ」
彼が指名したのは、成り行きで見学していた、そうべえ、しかい、ちくあん、ふっかいの四人だった。
「君は身が軽そうだ、高所の作業を頼む。君は手先が器用そうだから、細かい調整を。君は薬草に詳しそうだから、材料調達を。そして君は…まあ、何か困ったら祈祷でもしてくれ」
有無を言わさぬその態度に、四人もなぜか「はい!」と返事をしてしまう。
プロジェクト1:血の池地獄・消臭計画
一行はまず、強烈な悪臭が立ち込める血の池地獄へ向かった。
「うげぇ、こりゃひでえ…」
しかいが鼻をつまむ。
キムかつはサイクロン号を構えると、今度は12個のボタンの中から、純白のボタンを押した。
シュゥゥゥゥ…
サイクロン号の側面から、霧状の微細な粒子が噴射された。
「これは、俺が開発した光触媒ナノマシンだ。悪臭の原因物質を分子レベルで分解し、さらに副産物としてマイナスイオンを発生させる」
キムかつが説明すると、たちまち、あの鼻が曲がるような悪臭が消え去り、あたりにはまるで高原の朝のような、清々しい空気が満ちていった。
「おお…!空気がうまい!」
「なんだか、体の調子まで良くなってきたようだぞ!」
ちくあんが驚きの声を上げる。血の池に浸かっていた亡者たちも、心なしか表情が穏やかになっていた。
プロジェクト2:賽の河原・自動化計画
次に一行が向かったのは、子供の亡者たちが石を積み、鬼がそれを崩す、賽の河原。
「この不毛な作業、オートメーション化する」
キムかつはそう言うと、赤いボタンを押した。すると、サイクロン号の底部から、数本の多関節アームが伸びてきた。アームは器用に河原の石を拾い上げ、寸分の狂いもなく、あっという間に天まで届くような塔を組み上げてしまった。
さらに、別のボタンを押すと、アームは組み上げた塔を、今度はジェンガのように一本ずつ抜き取り、絶妙なバランスで崩していく。
「これで、積むのも崩すのも全自動だ。鬼の諸君も、労働から解放される」
鬼たちは、自分たちの仕事がハイテク化されていくのを、ただ呆然と眺めているしかなかった。
プロジェクト3:閻魔庁・空調快適化計画
最後に、キムかつは閻魔庁の快適化に取り掛かった。
彼はサイクロン号のファンを微風モードに設定し、先ほど開発した光触媒ナノマシンと組み合わせることで、庁内に心地よい風と清浄な空気を循環させた。さらに、サイクロン号の七色に光るファンを、心理的に落ち着く効果のあるという青系のグラデーションでゆっくりと点滅させた。
「ヒーリング効果もある。これで業務効率も上がるはずだ」
閻魔庁は、さながら高級リラクゼーションサロンのような快適空間へと生まれ変わった。閻魔大王は、玉座に座ったまま、あまりの心地よさにうとうとと船を漕ぎ始めている。
終章:そして日常へ
キムかつの手によって、地獄は見る影もなく変貌した。
灼熱地獄には涼しい風が吹き、血の池地獄はリゾート地の湖畔のように清々しく、鬼たちは労働から解放されて趣味の時間を楽しんでいる。地獄の威厳は完全に失われたが、誰もが幸せそうだった。
閻魔大王は、すっかり快適になった玉座で目を覚まし、満足げにため息をついた。
「おのれキムかつ…地獄を骨抜きにしおって。だが…約束は約束だ。見事であった。汝の勝利を認めよう」
しかし、その時だった。
ビビビビビッ!警告!エネルギー吸収率が許容量をオーバー!システム暴走の危険性アリ!
サイクロン号から、けたたましいアラート音が鳴り響いた。地獄の膨大な負のエネルギーを吸収し続けた結果、サイクロン号がオーバーロードを起こし始めたのだ。
七色のファンは激しく点滅し、キムかつの周りの空間が再びぐにゃりと歪み始める。
「まずい!緊急停止しないと、時空が崩壊する!」
キムかつが慌てて制御盤を操作しようとするが、暴走したシステムは言うことを聞かない。
その絶体絶命の危機を救ったのは、またしても愛猫たちだった。
暴走するサイクロン号の振動に驚いたうーろんとぷーあるが、パニックになってコントローラーの上を駆け回る。そして、ぷーあるの柔らかい肉球が、偶然にも、レバーの下に隠された小さな赤い緊急停止ボタンを、ぽすりと踏んだのだ。
プシューン…
サイクロン号の轟音と光が、嘘のように静まった。
暴走は止まったが、最後に放出された莫大なエネルギーは、現世へと続く安定したゲートと、そしてなぜかその隣に、きらびやかな光を放つ極楽浄土へのゲートを開いていた。
「…ふう、危なかった。緊急停止ボタンの位置、改良の余地ありだな」
キムかつは、冷や汗を拭うと、うーろんとぷーあるをしっかりと抱きかかえた。
「お前たちのおかげだ。よし、帰るぞ」
彼は、現世へと続くゲートを、迷いなくくぐっていった。
「い、今だ!我々も!」
そうべえの号令で、四人の男たちも、どさくさに紛れて極楽浄土へと続く光の階段を駆け上がっていった。
後に残された閻魔大王は、すっかり様変わりした地獄を見渡し、玉座に備え付けられたドリンクホルダーからお茶を取り出して一口飲んだ。
「まあ、たまにはこういうのも、悪くないか…」
その呟きは、心地よい風に乗って消えていった。
――日本のとある町、実家の一室。キムかつは、ハッと我に返った。
部屋はパーツや工具で散らかっているが、空気は清浄だ。
「…すごい夢だったな。だが、いいデータが取れた」
彼は満足げに笑うと、サイクロン号の新しい設計図を描き始めた。
「よし、次はうーろんとぷーあるのための、全自動おやつ供給機能と、自動ナデナデアームを追加しよう…」
彼の発明家としての探求は、これからも愛する猫たちのために、続いていくのだった。
おしまい。




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