『猫化する男』
西暦2025年、梅雨時の湿った空気がキムかつこと木村克美(43歳・独身・非正規雇用・実家暮らし)の六畳間に澱んでいた。安物の扇風機がぬるい風をかき混ぜる音が、彼の絶望的な孤独を強調しているかのようだ。スマホの画面には、今日だけで受信した37枚目の猫の写真が映し出されている。三毛、茶トラ、黒猫、ペルシャ…種類は様々だが、送り主は全て異なる女性アカウント。しかし、そこに添えられているのは「うちの子、可愛いでしょ?」という定型文ばかりで、キムかつ自身への問いかけは皆無だった。
「いや、可愛いけど…俺と話してくれよ…」
キムかつが虚空に呟く。彼は三ヶ月前、藁にもすがる思いでマッチングアプリに登録した。「趣味:猫(飼ってないけど好き)」と正直に書いたのが運の尽きだった。以来、彼のもとに届くのは猫、猫、猫。女性たちのプロフィール写真も、なぜか本人ではなく飼い猫の写真ばかり。まるで巨大な猫好きコミュニティに迷い込んだようで、肝心の人間とのロマンスの気配は微塵も感じられない。
非正規の倉庫作業で稼ぐわずかな金は、実家に入れる生活費と、たまに買うカップ麺、そしてこのアプリの月額料金で消えていく。43歳にもなって親のすねをかじり、恋愛経験も乏しい。鏡に映る自分は、疲れ切った中年男そのものだ。白髪の混じる無精ひげ、生気のない目、猫背気味の痩せた体。情けなさが服を着て歩いているような有様だった。
その夜、奇妙なことが起こり始めた。いつものように深夜、薄暗い部屋でスマホを眺めていると、画面の中の猫の写真が一斉に動き出したのだ。アメリカンショートヘアが画面から飛び出すような勢いで伸びをし、スコティッシュフォールドが「にゃーん」と鳴いた(気がした)。キムかつは目を擦る。疲れているのだろう。しかし、気のせいではなかった。
『キムかつさん、もっと構ってほしいニャ』
画面に、吹き出しと共にメッセージが表示された。送り主は「ミケコ」という名の、三毛猫のアイコンの女性だ。
「え…?」
初めて人間(?)からの能動的なメッセージに、キムかつは動揺した。指が震える。
『あ、あの、ミケコさん? 猫ちゃん、可愛いですね』
当たり障りのない返信をするのが精一杯だった。
『知ってるニャ。それより、キムかつさんは何味が好きかニャ? かつお節? ちゅーる?』
「…は?」
意味が分からない。これは何かの冗談か? 新手のネカマか? しかし、他の猫アイコンからも次々とメッセージが届き始めた。
『ねぇねぇ、マタタビ持ってる?』
『段ボール箱、最高の寝床だよね!』
『窓の外の鳥、捕まえたいニャー!』
会話が全く噛み合わない。いや、彼女たち(?)は完全に猫の視点で話している。キムかつは混乱しながらも、孤独感から解放されたい一心で、必死に返信を続けた。猫の気持ちを想像しながら、「かつお節、美味しいですよね」「段ボール、落ち着きます」と、トンチンカンな相槌を打った。
数日後、キムかつの体に異変が現れ始めた。まず、妙に背中が丸くなり、四つん這いになりたい衝動に駆られるようになった。倉庫での作業中、積み上げられた段ボールを見ると、無性に中に入りたくなる。昼食のカップ麺よりも、休憩室に置いてあった(誰かの)猫用のカリカリが妙に美味しそうに見えた。極めつけは、言葉の端々に「ニャ」が混じるようになったことだ。
「この荷物、あっちニャ…あ、いや、あっちに運んでください」
同僚に訝しげな顔をされた。まずい。何かがおかしい。アプリのせいだ。あの猫たちとの異常なコミュニケーションが、自分を蝕んでいるのではないか?
恐怖に駆られたキムかつは、アプリをアンインストールしようとした。しかし、指がアイコンに触れた瞬間、スマホが激しく振動し、画面に無数の猫の目が浮かび上がった。
『逃がさないニャ』
『キムかつは、もう我々の仲間ニャ』
『ようこそ、猫の世界へ』
声にならない悲鳴を上げ、スマホを投げ捨てた。だが、それは手遅れだった。
耳がピクピクと動き、聴力が異常に発達していくのを感じる。隣の家の赤ん坊の泣き声、遠くを走る車のエンジン音、そして壁の向こうで母親が父親に「克美、最近おかしいわよ…」と囁く声まで鮮明に聞こえる。鼻も利くようになり、階下のキッチンから漂う焼き魚の匂いに、喉がゴロゴロと鳴った。手の甲には薄っすらと毛が生え始め、指の代わりに肉球の感触があるような気がする。
「や、やめろ…俺は人間だ…!」
キムかつは鏡の前に立ち、変わりゆく自分の姿に慄いた。目は少し吊り上がり、瞳孔が縦に細長くなっている。口元はヒクヒクと動き、ヒゲが伸びているような感覚がある。何より恐ろしいのは、その変化に対して、どこか心地よさを感じ始めている自分自身だった。人間社会の煩わしさ、非正規雇用の不安、孤独…それらから解放され、ただ気ままに、日向で惰眠を貪り、旨いもの(焼き魚やカリカリ)を食らい、たまに気まぐれにじゃれる…そんな猫としての生が、抗いがたい魅力を持っているように思えてきたのだ。
「克美ー! ご飯よー!」
階下から母親の声がする。今夜のメニューは焼き鮭だろうか。キムかつは喉を鳴らした。返事をしようとしたが、口から出たのは「ニャア…」という、自分でも驚くほど自然な鳴き声だった。
もう、後戻りはできないのかもしれない。キムかつは諦めたように床に座り込み、無意識に前足を(いや、手を)舐め始めた。窓の外では、本物の猫たちが集会を開いているかのように、屋根の上で月光を浴びていた。彼らはキムかつの部屋を見上げ、まるで新しい仲間を歓迎するかのように、一斉に「ニャーオ」と鳴いた。
スマホが再び震え、画面には『祝・猫化完了! ようこそ、キムかつ!』というメッセージと、無数の猫たちのアイコンが表示されていた。もはや人間の女性からの連絡を待つ必要はない。彼は、望んだ形とは全く違うが、ついにコミュニティの一員となったのだ。
情けない43歳独身男性キムかつは、もはや人間としての会話を始めることはないだろう。彼はこれから、薄暗い六畳間で、あるいは街の片隅で、猫として生きていくのかもしれない。それが幸せか不幸せかは、彼自身にも、もう分からない。ただ、喉の奥から込み上げてくるゴロゴロという音だけが、彼の存在証明となっていた。



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