歪んだ笑顔
蛍光灯が白々しく照らす六畳間。壁にはいつ貼ったかも忘れたアイドルのポスターが、色褪せてこちらを見ている。キムかつ(43歳)は、万年床と化した布団の上で、無意味にスマホの画面をスワイプしていた。時刻は午前2時。非正規雇用の倉庫作業員である彼にとって、この時間は自由であり、同時に虚無だった。実家の一室が彼の世界の全てだった。
数日前、甥っ子が遊びに来た時のことだ。小学生になったばかりのその子は、無邪気に、しかし残酷な一言を放った。
「僕、大きくなったらおじちゃんみたいにはならないんだ!」
隣にいた妹夫婦は慌てて甥っ子の口を塞いだが、空気は凍りついた。キムかつの心臓は、古釘でも打ち込まれたかのように軋んだ痛みを上げた。だが、彼の顔の筋肉は、長年の処世術で、勝手に笑顔の形を作ってしまう。
「はは、そうだな。もっと立派になれよ」
声は、自分でも驚くほど穏やかだった。甥っ子はキョトンとしていたが、キムかつの笑顔は完璧だったはずだ。少なくとも、その時はそう思っていた。
異変はその夜から始まった。いつものように安酒を煽り、布団に潜り込んだ。眠りは浅く、奇妙な夢を見た。自分が粘土細工になり、甥っ子の小さな手で歪な笑顔を無理やり貼り付けられる夢だ。
朝、洗面台の鏡を見て、キムかつは息を呑んだ。
顔が、笑っていた。
口角がキュッと上がり、目が三日月型に細められている。まるで、昨日の甥っ子に向けた、あの作り笑顔のまま固まってしまったかのようだ。
「な、なんだこれ…」
慌てて顔の筋肉を動かそうとするが、ピクリともしない。まるで強力な接着剤で固定されたように、笑顔はキムかつの顔に貼り付いていた。
最初のうちは、単なる寝癖のようなものだろうと高を括っていた。しかし、その笑顔は水を浴びても、顔を叩いても、引っ張っても、元には戻らなかった。
職場では当然、奇異の目で見られた。
「キムかつさん、何か良いことでもあったんですか?」
同僚が遠慮がちに尋ねてくる。キムかつは事情を説明しようとしたが、笑顔のせいで口がうまく開かず、どもりがちになる。
「い、いや…その、なんというか…顔が…」
説明すればするほど、無理に笑って誤魔化しているようにしか見えない。やがて人々は彼を気味悪がり、遠巻きにするようになった。昼休憩の食堂でも、彼の周りだけぽっかりと空間が空いた。食事もままならない。固形物を咀嚼しようとすると、引きつった口角のせいで上手く口を動かせず、ボロボロと食べ物をこぼしてしまう。結局、ゼリー飲料やヨーグルトばかりを啜る日々が続いた。
彼は医者にも行った。神経科、形成外科、果ては整体や鍼灸院まで。しかし、どの医師も首を捻るばかり。
「うーん、器質的な異常は見当たりませんねぇ。精神的なものかもしれません」
心療内科を勧められたが、キムかつは行かなかった。自分の情けなさが、こんな奇妙な形で表面化したのだとしたら、それを認めるのが怖かった。
笑顔は彼の生活を蝕んでいった。夜、眠ろうとしても、鏡に映る自分の笑顔が視界の端でチラつき、安眠できない。コンビニで買い物をすれば、店員は訝しげな表情を浮かべる。電車に乗れば、向かいの席の子供が指をさして囁く。
「ママ、あの人、ずっと笑ってる…こわい」
世界から拒絶されているような感覚。彼は次第に実家の部屋に引きこもるようになった。仕事も休みがちになり、ついに契約を打ち切られた。
部屋の中で、キムかつはただ時間を持て余した。壁のポスターのアイドルも、どこか嘲笑っているように見える。彼はふと、甥っ子の言葉を思い出した。
「おじちゃんみたいにはならない」
あの時、咄嗟に作った笑顔。心の中では泣いていたのに、顔だけは笑っていた。あの瞬間の嘘が、歪んだ現実となって自分に返ってきたのだろうか。
彼は鏡の前に立った。そこに映るのは、頬が痩け、目の下に深い隈が刻まれた、しかし満面の笑みを浮かべた男の顔。それは喜びに満ちた笑顔ではなく、苦痛と虚無が張り付いた、グロテスクな仮面だった。
「そうだな…」
鏡の中の自分に向かって、あの日と同じ言葉を呟いた。声は掠れ、笑顔のせいで奇妙に震えていた。
「俺みたいになんか、なるなよ…絶対に…」
涙が溢れた。しかし、笑顔は消えない。涙は、歪んだ笑顔の溝を伝って、ただ静かに流れ落ちていく。まるで、道化師の涙のように。
外の世界との繋がりは、もうほとんどない。親の年金に頼る生活。貯金が底を突くのも時間の問題だろう。しかし、キムかつには何もする気力が湧かなかった。この奇怪な笑顔は、もはや彼自身の一部となっていた。彼が生きてきた43年間の、空虚で、受動的で、嘘で塗り固めた人生の、最終的な帰結なのかもしれない。
蛍光灯の白い光の下、キムかつはただ、歪んだ笑顔のまま、色褪せたポスターを見つめ続けていた。ハッピーエンドの兆しなど、どこにも見当たらない。ただ、静かで、奇妙で、救いのない時間が、実家の一室でゆっくりと流れていくだけだった。



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