理想の爪痕
キムかつ(43歳、独身、実家暮らし、非正規雇用)の部屋の隅には、かつての希望、そして現在の無力さの象徴が鎮座していた。通販で買った、腹筋を鍛えるという触れ込みの、黒くてゴツいダイエット器具だ。「痩せたらモテる」。そんな、まるで呪文のような言葉を信じて、なけなしのボーナスをはたいて購入したのが、もう何年前になるだろうか。最初の三日間だけは、汗を流し、鏡の前で腹筋の割れ目を夢想した。だが、キムかつの意志は、鍛え上げられるはずだった腹筋よりも遥かに脆弱だった。すぐに器具は埃をかぶり始め、部屋のオブジェと化した。
そして今、その黒い塊は、新たな役割を得ていた。飼い猫のタマが、そのザラザラした表面をいたく気に入り、極上の爪とぎとして愛用しているのだ。バリバリ、バリバリ…。キムかつが安物の発泡酒をあおりながら、ぼんやりとテレビを見ている間も、タマは一心不乱に爪を研いでいる。その音を聞くたび、キムかつは自嘲のため息をつくしかなかった。俺のモテたい願望の残骸が、猫の爪の手入れに使われているとは。人生とは皮肉なものだ。
その夜、異変は起こった。いつものようにタマがダイエット器具で爪を研いでいると、突如、器具が青白い光を放ち始めたのだ。タマがつけた無数の爪痕が、まるで精密な電子回路のように、明滅を繰り返している。
「…ん? なんだ?」
キムかつは目をこすった。疲れているのだろうか。それとも、発泡酒の飲みすぎか。光はすぐに消え、器具は再びただの黒い塊に戻った。タマも、何事もなかったかのように毛づくろいを始めている。気のせいか、と思い、キムかつはそのまま眠りについた。
しかし、それは気のせいではなかった。翌日から、キムかつの部屋に奇妙な変化が起こり始めた。まず、クローゼットの中に、見覚えのない、やけに洒落たデザインのシャツが数枚紛れ込んでいた。誰のだ? いつの間に? 不審に思いつつも、くたびれた自分の服と見比べ、キムかつはそれをそっと元に戻した。
次の日には、机の上に、高級そうな腕時計が置かれていた。もちろん、キムかつのものではない。まるで、「こういうのを身につけるのがモテる男だぞ」とでも言われているような気がして、気味が悪かった。
そして、数日後の深夜。キムかつがトイレに起きて部屋に戻ると、部屋の中央、ダイエット器具の前に、誰かが立っていた。心臓が跳ね上がる。泥棒か?
「…誰だ!」
声を張り上げると、その人影がゆっくりとこちらを向いた。月明かりに照らされたその顔を見て、キムかつは息を呑んだ。
自分自身だった。
いや、正確には、自分自身でありながら、まったくの別人だった。寝癖だらけの自分の髪とは違う、ワックスで整えられた髪。たるんだ自分の腹とは違う、引き締まった体躯。自信なさげに伏し目がちな自分とは違う、真っ直ぐにこちらを見据える、力強い眼差し。全体的に、数段…いや、数十段は洗練され、自信に満ち溢れている。それは、キムかつが心の奥底で、漠然と憧れていた「理想の自分」の姿そのものだった。
「…お前…は…?」
声が震える。
「俺か? 俺は『キムかつ』だよ」
理想のキムかつは、不敵な笑みを浮かべて言った。その声も、キムかつ自身のくぐもった声とは違い、妙に通りの良い、自信に満ちた響きを持っていた。
「お前の『痩せたらモテる』っていう、くだらないけど切実な願望と、タマが毎日コツコツ削ってくれたエネルギーが、俺を生み出したのさ」
理想像は、傍らのダイエット器具を軽く叩いた。器具は、応えるように青白い光を放っている。
「な…何を言ってるんだ…? これは夢か…?」
「夢なら覚めてほしいか?」理想像は嘲るように笑う。「残念だけど、これが現実だ。お前が目を背けてきた現実、お前が生み出してしまった現実だよ」
理想像キムかつは、部屋の中を悠然と歩き回り始めた。キムかつの安物の服を手に取り、鼻で笑う。壁に貼られたアイドルのポスターを見て、ため息をつく。
「ひどい部屋だな。センスもなければ、向上心もない。こんなところに住んでるから、お前はいつまでたってもダメなんだ」
「うるさい! 出ていけ! 俺の部屋から!」
キムかつは叫んだが、その声には全く力がなかった。長年の非正規雇用と孤独な生活で、彼の精神はすっかり摩耗しきっていた。
「出ていく? 馬鹿言うなよ。ここは『俺』の部屋だろ?」理想像は、キムかつの胸を軽く突いた。「これからは、俺が『キムかつ』として生きていく。お前みたいな、惰性と諦めでできた塊は、もう必要ない」
その言葉は、ナイフのようにキムかつの心を抉った。まさに、自分自身が心の底で感じていた自己否定そのものだったからだ。
その時、タマが理想像キムかつの足元にすり寄ってきた。そして、キムかつ本人には滅多に見せないような、甘えた声で鳴き始めた。
「おい、タマ…そいつは…」
キムかつが言いかけると、理想像はタマをひょいと抱き上げた。
「タマはわかってるんだよ。どっちが『本物』の飼い主か」
タマは、理想像の腕の中で、気持ちよさそうに喉を鳴らしている。その光景は、キムかつにとって決定的な敗北宣言のように思えた。
抵抗する気力は、もう残っていなかった。理想像キムかつは、本物のキムかつを部屋の隅に追いやると、まるで最初から自分がこの部屋の主であったかのように振る舞い始めた。キムかつのくたびれたパジャマを脱ぎ捨て、クローゼットから勝手に出現した洒落た服に着替える。鏡の前で髪をセットし、高級そうな腕時計をつける。その姿は、キムかつがかつて雑誌で見て憧れた「モテる男」そのものだった。
「さーて、今日は何をしようかな。とりあえず、ハローワークにでも行って、もっとマシな仕事を探すか。ああ、その前にジムにも行かないとな」
理想像キムかつは、独り言を言いながら、軽快な足取りで部屋を出ていった。まるで、輝かしい未来が約束されているかのように。
部屋の隅に取り残された、本物のキムかつは、ただ茫然とその背中を見送るしかなかった。自分がいるべき場所、自分の名前、自分の存在意義、そのすべてを、あの輝かしい偽物に奪われてしまったのだ。
彼は、かつて自分がダイエット器具を放置したように、部屋の隅で動かなくなった。壁に寄りかかり、膝を抱える。体は、痩せるどころか、ストレスでさらにむくんでいるような気さえした。窓から差し込む光が、部屋の中央で楽しそうに毛づくろいをするタマと、その傍らで静かに青白い光を放ち続けるダイエット器具を照らしている。
本物のキムかつは、もう何も考えられなかった。ただ、虚ろな目で、自分が作り出した理想の自分が、自分の人生を代わりに生きていくであろう現実を、暗い部屋の隅から見つめているだけだった。それは、救いようのない、静かな自己喪失。猫の爪痕が刻んだ理想は、彼自身の存在を跡形もなく削り取ってしまったのだ。


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