昭和ノスタルヂア・デイドリーム
西暦2025年、玲瓏たる令和の光が降り注ぐ住宅街の一角。しかし、キムかつ(43歳・独身・非正規雇用・実家暮らし)の自室だけは、頑なに昭和後期の空気を吐き出し続けていた。黄ばんだ壁紙、ブラウン管テレビの残骸、アイドルなのか女優なのか判然としない女性のポスターは、セピア色を通り越して煤けている。部屋に満ちるのは、防虫剤と古紙、そしてキムかつの澱んだ溜息が混じり合った、独特の匂い。
キムかつは、近所のダンボール工場で、来る日も来る日もベルトコンベアを流れる無地の箱に、ただひたすらガムテープを貼るだけの作業に従事していた。最低賃金ギリギリの時給。社員登用の話など、夢のまた夢。同僚は年下ばかりか、異国の言葉を話す若者たち。彼らの溌溂とした会話の輪に、キムかつが入る隙間はなかった。ただ黙々とテープを貼り、休憩時間はスマホで昭和の歌謡曲をイヤホンで聴く。それが彼の世界の全てだった。
家に帰ると、リビングからは両親が見ているワイドショーの騒々しい音が漏れ聞こえてくる。キムかつはそれに背を向け、自室の軋むドアを開ける。一歩足を踏み入れると、空気が変わる。令和の喧騒が嘘のように遠のき、耳には幻聴のように、微かに『ザ・ベストテン』のイントロが響く気がした。
「ただいま、聖子ちゃん…」
壁のポスターに声をかけるのが、彼の唯一のコミュニケーション。ポスターの彼女は、永遠の笑顔で応えてくれる…ようにキムかつには見えた。
彼の部屋の奇妙さは、単なる古さではなかった。時々、不可解な現象が起こるのだ。誰もいないはずなのに、黒電話のベルが「ジリリリン!」とけたたましく鳴り響く。受話器を取れば、聞こえるのは砂嵐のノイズと、遠い日の雑踏のような音だけ。ブラウン管テレビは、電源が入っていないにもかかわらず、深夜になると砂嵐の奥に、白黒の力道山の試合や、『ひょっこりひょうたん島』の断片のような映像を幻視させることがあった。
キムかつは、それを恐怖ではなく、むしろ郷愁と安らぎをもって受け入れていた。この部屋だけが、彼を拒絶しない。昭和という、彼が最も輝いていた(と勝手に思い込んでいる)時代が、ここには息づいているのだ。中学時代、クラスのマドンナに渡せなかったラブレター。友達と熱狂したファミコン。初めて買ったレコード。それらの甘酸っぱい記憶の断片が、部屋の埃と共に堆積しているかのようだった。
ある夜、いつものように工場から疲れ果てて帰宅すると、部屋の様子が一層おかしいことに気づいた。いつもは煤けたポスターの聖子ちゃんの瞳が、妙に潤んで艶めかしく光っている。そして、部屋の隅に置かれた、祖母の形見であるはずの古いこけし人形。その木彫りの無表情な顔が、微かに歪んで、キムかつを嘲笑っているように見えた。
「…気のせいか」
キムかつは首を振り、ベッドに倒れ込んだ。しかし、眠りは浅い。うとうとすると、耳元で囁く声が聞こえる。
『カッちゃん…まだそんなところにいるの…?』
それは、幼い頃に亡くなったはずの、近所のお姉さんの声に似ていた。昭和の夏祭り、手をつないで歩いた淡い記憶。
『こっちへおいでよ…こっちは楽しいよ…ずっと夏休みだよ…』
誘う声は甘く、抗いがたい。キムかつは無意識のうちに手を伸ばす。指先が触れたのは、冷たく硬い壁…のはずだった。しかし、その感触は生暖かく、柔らかな何かに変わっていた。まるで、昭和の空気そのものが粘性を持ち、彼を包み込もうとしているかのようだった。
壁の黄ばみが、古いニュース映像のようにノイズ混じりに動き出す。ポスターの聖子ちゃんが、ゆっくりと額縁から抜け出し、歌いながら踊り始めた。こけし人形は、カタカタと音を立てて回転し、その目からは涙のように、黒い樹液が流れ落ちている。
「ああ…昭和だ…本物の昭和が、僕を迎えに来てくれたんだ…!」
キムかつは歓喜した。非正規の侘しさも、43歳独身の孤独も、全てが洗い流されるような感覚。彼は立ち上がり、踊る聖子ちゃんの手を取ろうとした。
その瞬間、部屋のドアが勢いよく開いた。
「カツヒコ!あんた、いつまで寝てるの!ご飯だって言ってるでしょ!」
母親の甲高い声。令和の現実が、鋭いナイフのように昭和の幻覚を切り裂いた。
ハッと我に返ると、部屋はいつもの薄暗く埃っぽい空間に戻っていた。ポスターはただの紙切れ、こけしはただの木偶。壁は動かず、黒電話は沈黙している。キムかつの手は、虚しく宙を掴んでいた。
「……」
キムかつは、母親の声に返事もせず、ただ呆然と立ち尽くしていた。胸を締め付けるのは、安堵ではない。強烈な喪失感と、現実への絶望感だった。
あの甘美な昭和の空間は、もう二度と現れないかもしれない。迎えに来てくれたはずの昭和は、母親の一声で、泡のように消え去ってしまった。
彼はゆっくりとベッドに腰を下ろす。窓の外では、令和のネオンが煌々と輝き、隣の家からは楽しげな家族の笑い声が聞こえてくる。それら全てが、キムかつには耐え難い苦痛だった。
彼の部屋には、相変わらず昭和の時間が流れている。しかしそれは、もはや懐かしい故郷ではなく、彼自身が作り出した、抜け出すことのできない澱んだ沼だった。壁のシミは彼の心の染みとなり、防虫剤の匂いは彼の未来の無臭さを予感させた。
キムかつは、動かない。ただ、煤けたポスターの、決して色褪せることのない笑顔を見つめ続ける。彼はもう、令和の現実を生きる気力を失っていた。かといって、昭和の幻影に逃げ込むことも許されない。彼は、二つの時代の狭間で、ただひたすらに摩耗していく。
情けない43歳独身男性キムかつ。彼の部屋にハッピーエンドの光が差し込むことは、永遠にないだろう。ただ、古びた昭和の亡霊だけが、彼に寄り添い続けるのだ。まるで、錆びついたブリキのおもちゃのように、ただそこに在り続けることだけを許されて。
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