猫と蛍光灯と、四十三歳の宇宙
蛍光灯が単調なハム音を立てる。四畳半の自室。壁にはいつ貼ったかも忘れたアイドルグループのポスターが煤けている。キムかつ、四十三歳、独身、実家暮らし、非正規雇用。彼の宇宙は、この部屋とコンビニと、週に一度の猫カフェ「にゃんだーランド」で完結していた。
キムかつの非正規の仕事は、古紙回収センターでの仕分け作業だ。古新聞や段ボールの山に埋もれながら、彼は時折、インクの匂いに混じって、遠い銀河の猫型宇宙人のテレパシーを受信していると信じていた。それは、彼が抱える巨大な孤独感を埋めるための、ささやかな防衛機制だったのかもしれない。
その日、キムかつはくたびれたスウェットから、なけなしの金で買った、少しだけ「まし」なポロシャツに着替えた。襟が微妙に黄ばんでいるのは見ないふりをする。目的地は「にゃんだーランド」。そこは彼にとって、古紙センターの埃っぽさとは無縁の、清潔で柔らかな聖域だった。
ドアを開けると、猫特有の甘い匂いと消毒液の匂いが混じり合った空気が彼を迎える。壁際のキャットタワーでは、毛皮の貴族たちが気ままに昼寝をし、床では子猫たちがじゃれ合っている。キムかつは受付で規定料金を支払い、震える手で消毒スプレーを吹きかけた。彼の視線は一点に注がれていた。窓際の席で、一人の女性客の膝の上で優雅に香箱座りをしている、純白のペルシャ猫。キムかつはその猫を「スノーエンジェル」と密かに呼んでいた。
彼はスノーエンジェルこそが、猫型宇宙人の女王であり、自分をこの退屈な地球から連れ出してくれる存在だと固く信じていた。問題は、スノーエンジェルには既に「地球での仮の保護者」がいることだ。膝の上に乗せている、小綺麗なワンピースを着た女性。キムかつは彼女を「障壁」と認識していた。
キムかつは、空いている席には目もくれず、スノーエンジェルのいるテーブルへ、まるで引力に引かれるように近づいた。女性客はスマホを見ていて、キムかつの接近に気づいていない。彼はそっと膝をつき、四つん這いに近い姿勢になった。床に額がつきそうなほど頭を下げ、囁く。
「女王陛下…迎えに参りましたぞ…この地球の軛(くびき)から貴女様を解放し、共に星々の海へ…」
彼の声は、周囲の客たちのひそひそ話や、猫の鳴き声にかき消されるほど小さかった。しかし、その異様な姿勢と、ぶつぶつと何かを呟く姿は、さすがに目立った。
スノーエンジェルは、迷惑そうに片目を開け、ふいっと顔を背けた。女性客は、足元で蠢く気配に気づき、スマホから顔を上げた。目の前に、床に這いつくばる中年男性。驚きと若干の恐怖で目を見開いた。
キムかつは、女性客の反応など意に介さず、ポケットから何かを取り出した。それは、古紙センターで見つけた、インクで汚れたビー玉だった。彼はこれを「宇宙の涙」と名付け、女王への貢物として捧げるつもりだった。
「陛下、これを…我が忠誠の証…」
ビー玉を猫の鼻先に差し出そうとした、その時だった。
「あ、お客様…申し訳ありませんが…」
背後から、柔らかくも制止する声がかかった。振り返ると、猫耳カチューシャをつけた若い女性店員が、困ったような笑顔で立っていた。
「他のお客様の猫ちゃんに、あまり馴れ馴れしくされるのはちょっと…。特に、その子は少し臆病なところがありまして…」
店員の言葉は丁寧だった。やんわりとした注意。しかし、キムかつの内宇宙では、それは絶対的な拒絶、女王陛下からの「お前のような下賤な者に、我が星への移住は許されぬ」という最終通告のように響いた。
彼の顔から急速に血の気が引いた。ビー玉を持つ手が震え、カラン、と乾いた音を立てて床に転がった。女性客は、気まずそうに視線を逸らし、スノーエンジェルを抱き上げて席を立った。まるで汚物から逃れるように。
キムかつの周りだけ、空気が凍りついたようだった。他の客たちの好奇と憐憫の入り混じった視線が突き刺さる。彼はゆっくりと立ち上がり、よろよろと出口へ向かった。店員の「ありがとうございましたー」という声が、やけに遠くに聞こえた。
帰り道、公園のベンチに座り、キムかつは空を見上げた。夕暮れの空には一番星が瞬き始めていた。猫型宇宙人は、やはり彼を迎えには来ないのだろうか。それとも、今日の失態で、見限られてしまったのだろうか。
「…女王陛下…」
掠れた声が漏れる。隣には誰もいない。ただ、足元に野良猫が一匹、警戒しながらも近づいてきていた。黒地に白い斑点のある、痩せた猫だった。キムかつは、震える手でポケットを探った。コンビニで買った、食べかけの魚肉ソーセージ。
彼はそれをちぎって、猫の前に置いた。猫は一瞬ためらった後、素早くそれを咥えて、暗がりに消えた。
キムかつは、それを見送るともなしに見送った。彼が救いを求めた女王陛下ではない、ただの薄汚れた野良猫。しかし、ほんの一瞬、魚肉ソーセージを受け取ったその猫の瞳が、遠い星のように輝いた気がした。
いや、それもまた、彼の作り出した幻想に過ぎないのかもしれない。
家に帰り着くと、母親が「おかえり。ご飯できてるわよ」と、居間から声をかけた。その声には、何の期待も、何の特別な感情も含まれていない。いつもの日常。彼は返事もせず、自室のドアを開けた。蛍光灯が、また単調なハム音を立てて彼を迎える。煤けたポスターのアイドルは、永遠に微笑んだまま。
キムかつの四十三歳の宇宙は、今日も静かに、そして絶望的に、広がっていた。ハッピーエンドの兆しなど、どこにも見当たらない。彼はベッドに倒れ込み、目を閉じた。瞼の裏で、インクで汚れたビー玉と、ふいっと顔を背けた白いペルシャ猫の残像が、いつまでもちらついていた。





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