『ポイントサイトの悪魔と、キムかつの褪せたキャットフード』
蛍光灯の白い光が、壁の黄ばんだシミをいやらしく照らし出す。キムかつ、本名・木村勝男、43歳、独身、非正規雇用。人生のハイライトといえば、中学時代のマラソン大会で奇跡的に3位に入ったことくらいか。今は実家の子供部屋だった六畳間に寄生し、古びたパソコンと向き合う日々だ。彼の瞳は、画面の隅に表示されるポイント残高に釘付けになっている。目標額まで、あと、312ポイント。
「タマ…もうちょっとだからな…我慢しろよ…」
キムかつが声をかける先には、部屋の隅で香箱座りをする老猫、タマがいる。白地に茶色のブチが入った、どこにでもいるような雑種猫だが、キムかつにとっては唯一無二の家族であり、この薄暗い生活における一条の光、いや、唯一の温もりだった。そのタマが最近、お気に入りの高級おやつ「海の宝石箱・極上まぐろ味」に見向きもしなくなった。獣医に見せると、加齢による食欲不振だろうとのこと。だが、キムかつは諦めきれない。あの恍惚とした表情で「海の宝石箱」を頬張るタマの姿を取り戻したい。そのためには、より匂い立ち、より嗜好性の強い、しかし当然ながら高価な「プレミアム・キャットニップ風味・深海サーモンムース仕立て」を手に入れねばならないのだ。
その原資を得るべく、キムかつが血眼になって取り組んでいるのが、ポイントサイトのアンケート回答だ。「あなたの好きな色は?」「休日の過ごし方は?」「最近購入した家電は?」…ありきたりな質問に、彼は無心でクリックを繰り返す。1ポイント、また1ポイントと、雀の涙ほどの報酬が積み重なっていく。それはまるで、賽の河原で石を積むような、虚しくも切実な作業だった。
そんなある日、いつもの退屈なアンケートリストの中に、異質なものが紛れ込んでいることに気づいた。
【特別調査】あなたの潜在的な”願望”に関するアンケート(高ポイント進呈!)
怪訝に思いつつも、”高ポイント”の文字に釣られてクリックする。現れた質問は、これまでのものとは明らかに毛色が違った。
問1:もし、あなたの愛する存在を不老不死にできるとしたら、何を代償にしますか?(複数選択可:a. 自身の寿命の半分 b. 全財産 c. 最も美しい思い出 d. 他者の不幸 e. その他)
問2:世界から”退屈”という概念を消し去るボタンがあります。押しますか?(但し、副作用として、あなたは一切の”喜び”を感じられなくなります)
問3:あなたの魂の色は何色に近いですか?(カラーパレットから選択)
問4:もし、言葉を話す猫がいるとしたら、最初に何を尋ねますか?
キムかつは眉をひそめた。なんだこれは?ふざけているのか?しかし、設問の横には「1回答につき50ポイント」という破格の報酬が表示されている。目標額まであと僅か。彼は唾を飲み込み、マウスを握りしめた。
問1には「c. 最も美しい思い出」を選んだ。中学のマラソン大会の記憶など、タマの永遠の健康に比べれば塵芥に等しい。問2は「押さない」を選択。喜びのない世界でタマと生きても意味がない。問3は、悩んだ末に「灰色」を選んだ。問4は「やっぱり『海の宝石箱』はもう嫌いなのか?」と正直な気持ちを打ち込んだ。
全ての質問に答え終えると、画面には「ご協力ありがとうございました。312ポイントが付与されました」というメッセージと共に、ファンファーレのような安っぽい効果音が鳴った。目標達成だ。キムかつは椅子から飛び上がらんばかりに喜んだ。これで「プレミアム・キャットニップ風味・深海サーモンムース仕立て」が買える!
早速、ポイントを換金しようと手続きを進める。しかし、最後の「換金実行」ボタンを押そうとした瞬間、画面に新たなウィンドウがポップアップした。
【最終確認】
あなたは、提供された情報に基づき、”対価”を支払うことに同意しますか?
[はい、同意して換金します] [いいえ、キャンセルします]
「対価…?何の対価だ?」キムかつは訝しんだ。利用規約を読み返しても、そんな記述は見当たらない。怪しい。しかし、目の前にはタマの喜ぶ顔がちらついている。それに、ポイントを得るために答えたのは、しょせん妄想のようなアンケートだ。実害などあるはずがない。彼は意を決して「はい、同意して換金します」をクリックした。
その瞬間、部屋の空気が変わった。蛍光灯がチカチカと明滅し、パソコンのモニターが砂嵐のようなノイズを発する。そして、キムかつの耳に、直接響くような声が聞こえた。
『契約は成立した。対価は、お前の最も美しい思い出…すなわち、”愛猫との幸福な記憶”とする』
「なっ…!?」キムかつが叫ぶのと、部屋の隅でタマが苦し気に「ニャア…」と鳴いたのは同時だった。タマの体が、まるで陽炎のように揺らめき始める。その輪郭が徐々に薄れ、透き通っていく。
「タマ!しっかりしろ!タマ!」キムかつは必死で駆け寄り、タマを抱きしめようとした。しかし、彼の腕は、すり抜けるようにしてタマの体を通過した。タマの姿は、まるで古い写真のように色褪せていき、最後には完全に透明になって、部屋の空気の中に溶けて消えてしまった。
「ああ…あ…」キムかつは、床にへたり込んだ。何が起こったのか理解できない。ただ、胸にぽっかりと穴が開いたような、途方もない喪失感だけがそこにあった。愛猫の温もりも、その愛らしい仕草も、共に過ごした時間の記憶さえも、まるで初めから存在しなかったかのように、綺麗さっぱりと消え失せていた。
ふと、パソコンの画面に目をやると、換金完了のメッセージが表示されていた。口座には、確かに「プレミアム・キャットニップ風味・深海サーモンムース仕立て」を買うのに十分な金額が振り込まれている。しかし、その金を誰のために使うというのか?
部屋には、主を失ったキャットタワーと、使い古された猫じゃらしだけが、キムかつの空虚な心を映すかのように、静かに横たわっていた。壁の黄ばんだシミが、まるで嘲笑うかのように、ゆらりと歪んで見えた。ポイントサイトの悪魔は、彼の最も大切なものを奪い去り、代わりに無価値な金と、永遠に埋まることのない虚無だけを残していったのだった。彼の情けない人生に、ハッピーエンドが訪れることは、もはや決してなかった。



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