
カステラは囁く
キムかつ(43歳、独身、実家暮らし、非正規雇用)は、スーパーの蛍光灯の下、黄色い値札とにらめっこしていた。3割引。弟、ケンジの新築祝いに持っていく手土産だ。昨日から散々悩んだ。デパートの高級洋菓子、老舗の和菓子、気の利いたワイン…どれもこれも、今のキムかつの財布には重すぎた。見栄と現実の狭間で右往左往した末、結局、いつものスーパーの値引きコーナーに流れ着いたのだ。
「…カステラか」

黄金色の、ふっくらとした長方形。悪くない。子供の頃、特別な日にしか食べられなかった高級品のイメージが、まだキムかつの脳裏には焼き付いている。3割引とはいえ、体裁は保てるはずだ。それに、ケンジの嫁さん、確か甘いもの好きだったような…。誰に言い訳するでもなく、キムかつはカゴにカステラを放り込んだ。レジで支払いを済ませ、ビニール袋をぶら下げて夜道を歩く。古い実家の玄関を開けると、埃とカビの匂いが混じった、いつもの空気がキムかつを迎えた。
自室のちゃぶ台にカステラを置く。包装紙のわずかな破れが、値引き品であることを雄弁に物語っているようで、妙に気になる。ため息をつき、安焼酎のボトルを開けた。明日のことを考えると、気が重い。ピカピカの新築一戸建て。大手企業に勤める弟。優しい(ように見える)奥さん。そして、可愛い(であろう)姪っ子。それに引き換え、自分は…。実家の子供部屋に寄生し、工場の単純作業で日銭を稼ぐ中年男。弟の成功は眩しく、同時にキムかつの惨めさを際立たせる鏡のようだった。
「…なんで、こうなっちまったかなぁ」

グラスに残った焼酎を一気に煽る。酔いが回り、意識が朦朧としてきたその時だった。
『…おい』
低い声が聞こえた。気のせいか? キムかつは部屋を見回す。誰もいない。
『おい、キムかつ。聞こえてんだろ』
声は、ちゃぶ台の上から聞こえてくる。まさか、と思い、キムかつはカステラに目をやった。
『そうだ、俺だよ。お前が買ってきた、3割引の俺様だ』
カステラが喋っている。包装紙の上からでも、その声ははっきりとキムかつの鼓膜を震わせた。声質は、キムかつ自身の声によく似ていたが、もっと低く、ねっとりとした嘲りが含まれていた。
「…う、嘘だろ…」
キムかつは後ずさった。酔いのせいか、幻覚を見ているのか。
『幻覚? ハッ、お前の人生そのものが幻覚みたいなもんじゃねえか。43にもなって、実家で親のスネかじって、非正規で働いて。おまけに、弟の祝いに持っていくのが、この値引き品の俺様だぜ? 情けねえったらありゃしねえ』
カステラの言葉は、ナイフのようにキムかつの心を抉った。普段、自分自身に対して心の奥底で繰り返している罵詈雑言そのものだった。
「うるさい!黙れ!」
『黙る? なんでだよ。お前はずっと、俺みたいな声から逃げてきたんだろ? 聞こえないふりして、見ないふりして。でも、もう限界だ。お前の情けなさは、この甘ったるいスポンジ生地みたいに、隅々まで染み渡ってるんだよ』
カステラは、ねっとりとした声で囁き続ける。キムかつの過去の失敗、諦めた夢、逃げ出した現実。それは、キムかつ自身が忘れたふりをしていた記憶の断片だった。

『なあ、キムかつ。明日、ケンジの家でどうするつもりだ? この俺を、胸張って渡せるのか?「兄ちゃん、奮発したぞ!」って? ククク…想像しただけで笑えるぜ』
「…じゃあ、どうしろって言うんだ…」
キムかつは、床にへたり込んだまま、か細い声で尋ねた。
『どうもしなくていい。お前はお前のままでいいんだよ。情けなくて、みっともなくて、誰からも相手にされないキムかつのままでな。明日も、この俺をぶら下げて、弟夫婦の憐れむような視線を浴びてこいよ。それがお似合いだ』
カステラの言葉は、呪いのようにキムかつの脳に染み込んでいく。反論しようとしても、言葉が出てこない。カステラの言う通りかもしれない。自分には、値引きされたカステラがお似合いなのだ。
翌日、キムかつは重い足取りで弟の家に向かった。手には、昨日買ったカステラの袋がぶら下がっている。道中も、カステラの囁きは止まなかった。それはもう、外から聞こえる声ではなく、キムかつ自身の内側から響いてくる声のようだった。
『見てみろよ、キムかつ。あの親子連れ。幸せそうだなあ。お前には一生縁のない光景だ』
『ああ、あのショーウィンドウのスーツ、かっこいいな。お前には、作業着がお似合いだけどな』
『ケンジの家、立派だなあ。お前は一生、あの古臭い実家から出られないんだ』
囁きは、キムかつの劣等感を容赦なく刺激し、増幅させた。弟の家のインターホンを押す指が震える。
「…あ、兄さん!よく来てくれたね!」
笑顔で出迎える弟、ケンジ。その後ろから、上品な奥さんが「いらっしゃいませ」と会釈する。リビングに通されると、そこにはキムかつの知らない、暖かく、明るい世界が広がっていた。おしゃれな家具、壁に飾られた家族写真、子供のおもちゃ。すべてがキムかつの日常とはかけ離れていた。
「これ、つまらないものだけど…」
キムかつは、震える手でカステラの袋を差し出した。奥さんは笑顔で受け取ったが、その目が値札の剥がし跡を一瞬捉えたのを、キムかつは見逃さなかった。
『…ほらな。バレバレだぜ、お前の貧乏くささ』
カステラの声が頭の中で嘲笑う。
祝いの席は、和やかに進んでいるように見えた。しかし、キムかつの耳には、弟夫婦の会話も、姪っ子の笑い声も、どこか遠くに聞こえた。カステラの囁きだけが、やけにクリアに響く。
『お前、場違いだと思わないか? ここはお前のいるべき場所じゃない』
『さっさと帰れよ。お前の存在が、この幸せな空間を汚してるんだ』
『そうだ、あの姪っ子にお前の安焼酎でも飲ませてやれよ。お似合いだろ?』
囁きはどんどんエスカレートしていく。キムかつの額には脂汗が滲み、呼吸が荒くなる。ケンジが心配そうに声をかけてきた。
「兄さん? どうかしたの? 顔色悪いよ」
その瞬間、キムかつの中で何かがプツリと切れた。
「うるさいっ!」
キムかつは突然立ち上がり、テーブルの上の料理を薙ぎ払った。皿が床に落ちて砕ける音、姪っ子の泣き声、ケンジ夫婦の驚愕の表情。

「俺が…俺が、こんなところにいるのが、そんなにおかしいか! 値引きのカステラが、そんなに不満か! お前らみたいに、幸せそうにしやがって…! 俺の気持ちも知らないで!」
キムかつは、支離滅裂な言葉を叫び続けた。頭の中では、カステラが高らかに笑っている。
『そうだ、もっとやれ! 全部ぶち壊せ! それがお前だ、キムかつ!』
ケンジに羽交い締めにされ、家から追い出される。ドアが閉まる直前、奥さんの冷たい視線が突き刺さった。
帰り道、キムかつはふらふらと歩いていた。手には、いつの間にか握りしめていたカステラがあった。包装紙は破れ、スポンジがむき出しになっている。
「…お前のせいだ…お前のせいで、俺は…!」
キムかつは憎悪を込めてカステラを睨みつけ、地面に叩きつけようとした。しかし、その瞬間、カステラがぬるりと手の中で蠢いた。そして、みるみるうちに大きくなっていく。黄色いスポンジがキムかつの視界を覆い尽くし、甘ったるい匂いが鼻をつく。
『言っただろ、キムかつ。お前はお前のままでいいんだ。俺と一緒にな』
カステラは巨大な口のように開き、キムかつを飲み込もうとしていた。抵抗する力は、もう残っていなかった。甘い闇が、キムかつの意識をゆっくりと覆っていく。最後に聞こえたのは、自分自身の声によく似た、カステラの嘲笑だけだった。

公園のベンチに、一つのカステラが落ちていた。包装は破れ、少し潰れている。そばには誰もいない。ただ、カステラの甘い匂いだけが、夜の空気に漂っていた。それはまるで、最初から誰もいなかったかのように、静かな夜だった。
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